「人生二度なし」「根本真理に触れる」 森信三全集全25巻の中 第16巻より
「人生二度なし」
「森信三全集」第16巻の巻頭に「この書の意図するもの」と題して
森信三先生は「人生二度なし」に触れていいます。
「これはそのかみ私が35歳のころーそれは私にとっては生涯における
一つのコンヴァーションの時期でしたがーそのころ、私の感得した人生の
根本真理であり、根本認識だったのであります。」
しかし、こんなことは普通の人にとってはあたりまえのことで、ことさら言われる
までもないことをどうしてこの時期に目覚めたのはいったいなにゆえか。。。
どうしたことがきっかけでこのようなことを考えついたものか、当の先生自身
にもはっきりした記憶がないと述べられています。
「だが、強いて申したら、多分その頃になって、それまで私の夢見てきた
いわゆる現世的な栄達というようなものが、叶えられそうにもないことが
感じられてきたということが、恐らくはその最大の原因ではあるまいかと
思われます。と申しますのも私は、もともと高等師範から大学へという
ような傍系の学歴の上に、私自身人間にわがままな処があって、どうしても
アカデミックな学風に馴染めないものがあったのであります。
その上に、大学を卒業したときは、すでに数え年31才でした。
そして卒業すると同時に、大学院に籍をおきながら、当時初めておかれた
大阪の天王寺師範の専攻科の講師としてつとめるようになったのであります。
ところが、そのうちに浜口内閣の大緊急政策によって、高給嘱託の整理が
行われると共に、それまで京都に住んでいた私は、専任教師として、居を
大阪の南郊田辺の地に移して、師範の一教師としての歩みが始まった
わけであります。
孤独寂寥の心を抱いて学問の都京都を去った日の思い出は、今に忘れられぬ
記憶として心の底深く残っています。
高師や大学時代のに私より成績の劣っていた人々が、それぞれ母校に
迎えられている時、私は逆に一師範の専任教師たる運命の歩みを
ふみ出したわけであります。」
そして森信三先生は、さらにこのご自分の運命を考えます。
「私が「人生二度なし」という言葉のもつ深い真理性を、からだに沁みて
感得したのは、いわばこうした環境と状況の下においてであったのであります。
前にも申すように、単に人間の人生が二度と繰り返せぬものだという
くらいなことだったら、小学の五、六年生でもみな心得ている事柄だとも
いえましょう。
しかるにおとなの私が、しかも人生の半ばを過ぎる年ごろになって、
はじめてこの人生の根本真理に目覚めたということは、いったい、
如何なることを意味するかというに、それは、端的に申せば、
現世的栄達の希望が遮断せられることに即して、人生を大観するの
明知が兆しはじめたという事でありましょう。
同時に私は心の底から驚いたのであります。
というのも、それまでの私は、自分の日々の生活を、このような人生の最大最深の
真理と直接むすびつけて考えたことは、かつて一度もなかったからであります。
即ち私という人間は、もともと非常にお目出度くできているために、
何かの拍子に、人からそうした真理について聞かされるとか、あるいは
書物に書かれているのを見たときだけは「たしかにその通りだ」とは
思っていても、その後しばらくたてば、たちまちそれを忘れてしまう
という有様だったのであります。
つまりそれまでの私は、このような人生の根本的な真理とは、全く
無縁に、ただうかうかと日々を過ごしていたわけであります。
ところが前にも申しましたように、35歳ころになって、私には
この人生の根本的真理が、いわば衝撃的に私の全身全霊に
響くと共に、自分のこれまでの生活をかえりみて、
「これではいかぬ」と言う感じが心の底から湧き上がってきたのであります。
それと共に、自分のこれまでの人生が、文字通り酔生夢死の生活だった
ということが、ハッキリしだしてきたのであります。
人間というものは、自分が酔生夢死のくらしをしている間は、
かえってそれとは気づかないものですが、ひとたび心の眼が開けて
これまでの自分の生活が、文字通り酔生夢死の生活だったと
いうことがわかりだしてくると、そこにはじめて人生の深い
緊張感を覚えるようになったのであります。
ではそのような人生の根本的な転回点に起って、私は人生を一体どのように
生きようとしたのでしょうか。
今それを一口で申しますと「ひとつ、この二度とない人生を、徹底的に
悔いのないように生きてみよう」ということであり、そうした一種の
決意が生まれてきたといってよいでしょう。」
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by jissenjin0664
| 2023-02-28 14:24
| ○森信三
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